2009年07月04日

21日間の断食祈祷により「報徳思想」の完成。二宮尊徳

当時の最高の賢人・経済人であり、且つ成功者の代表と目されていた二宮尊徳であったが・・

7年間の桜町での歩みは尊徳の最大の挫折期であったそうだ。

しかし、失踪までしたその期間は、尊徳の報徳思想の完成期であったようだ。

艱難辛苦が稀有の偉人「尊徳」たらしめたようだ。  以下にて成田山にて神仏への祈願の件・・・

文政12年、先生43歳、この年の1月、豊田正作などの妨害で桜町の仕法が進まなくなった。
先生は1月4日、江戸に出たきり、数十日間、所在が不明となる。
3月中旬ようやく先生が成田山で断食祈願していることが知られた。
4月8日に祈願が満願に達し、ようやく桜町陣屋に戻った。
この後、仕法が順調に行われるようになる。

報徳記には「下総国(千葉県)成田山におもむき、21日間断食して、上は大久保忠真候の心を安んじ、下は百姓を救うことを祈願し、毎日数回水を浴びて身体を清浄にして、昼夜怠りなく祈念した。21日目の満願の日にその真心が御仏に通じ、大願成就の霊験を得られたという。しかし、尊徳先生は生涯このことを言わなかったので、人々はその詳細を知らなかった」とある。
この間の事情について、調べたのが先生晩年の弟子、岡田淡山で「二宮先生の七大誓願」という著がある。

○文政12年3月先生祈願のことあり。
 千葉県の成田山に参篭して断食し祈願して21日にして感応があった。
物井の村中の人々はこぞってその過ちを悔いて、先生を出迎え、先生の教えにそむくことはないと誓った。
 私(岡田淡山)はかって先生の旧跡を尋ねて諸国を歴訪し、千葉の成田山新勝寺に参詣した。
そして、ある僧侶に面会することができ、親しく先生が断食祈願した当時のことを聞くことができた。
○はじめ、先生は成田山の門前の小川屋(先生が参篭された当時は「佐久良屋」といい、現在は信徒会館となっており、先生がここに泊まられた旨の立て札が立っている)に来てこう言った。
「余は心願のことがあって、成田山に断食祈誓しようと欲する者だ。
宿を借りたい」
宿の主は「どうぞ」といったん諾したが、
先生の容貌がただならぬことをいぶかって、住所と氏名を聞いた。
「余は小田原藩士である」と先生は答え、持ち金を預けようとした。
主は容貌がはなはだ立派なのに、衣服はひどく粗末、しかも大金を持っていることに驚いて、やっかいな事にまきこまれてはかなわないと思い、
宿に泊めるのを断ろうとした。
すると先生は大声で叱り飛ばして言った。
「いったん諾した後で断るとはなにごとか。
 余は心願があってここに来たって参篭しようとする者である。
 いったい何を疑おうとするのか」
その目の光は人を射るほどであった。
主は恐れおののいて先生に謝って、宿泊させたが、安心できないため、江戸の小田原藩邸に人をやって確かめさせた。
小田原藩邸の者は、「二宮は確かにわが藩の者で疑うべき者ではない。また、二宮は尋常の者ではないから、決して軽々しく扱ってはならんぞ。」と告げた。
当時、大久保候は老中であって、その声望は天下に鳴り響いていた。
その使いの報告を聞いて、宿の主はいったんは安心したものの、さきに尊徳先生の怒りをかったことを恐れて、新勝寺の和尚にこれまでのことを相談し、とりなしをお願いした。
 当時の住職の名前を照胤(しょういん)といった。
非常に学識があった。
主の請いを受けて、二宮先生のもとに至って、主の失言をわびた。
先生はにっこりとほほえまれて少しも気にしていないと丁寧に答えられた。

「あなたの心のひろいことは宿にとって幸いである。
 しかし、この宿は大変出入りが激しく、数日の参篭の間、はなはだ静座するのに妨げであろう。本寺に別寮がある。どうじゃな、そちらに移られて静かに修行されては」と和尚は先生に言われ、先生は喜んでその言葉を受け入れた。

○先生は、新勝寺の別寮に移られて、日々朝から晩まで水を浴び、お経を唱え、祈念怠ることがなかった。
 和尚は、間を見て、二宮先生に問うた。
「世に当山に祈願するものを見るに、あるいは自らの病気を治すため、あるいは貧乏を免れようとし、あるいは栄華や利益を願うためにし、あるいは愛欲をみたさんと願い、おおよそその私情私利の欲念のために祈願しないものはない。
 今、私があなたを見るに健康で病気でもない。衣服は粗末だが、貧乏を憂えてのことでもない、栄華利欲を祈るものでもない。言語もしっかりしており、とても危うい道を踏み行って災難に遭遇するとも思えない。心ひろくまっすぐで欲念や怒りをはらすためでもない。
 そもそも何を祈願することがあって、特に当山に来て、食事を絶ち、身を苦しめようとするのか」

 先生はこうおっしゃった。
「わたしは病気があるわけでもない。
 しかしながら幼くして父母の病気にあって不幸にしてはやく父母をなくしてみなしごとなった。その不幸はいかほどか。
 思うに天下に私と不幸を同じくするものが少なくないことを知るゆえに、天下の人の父母たるものが無病健全で子どもが安心して生育できるよう祈願するものである。

 私は今貧乏を憂えるものではない。しかし、極貧の家に成長し、父母の艱難は言葉に尽くしがたいものであった。世の中で貧乏より悲しいものはないということを知った。
 ここをもって天下の貧者をみては、あまねくこれを救済して富者になさしめることを祈願するものである。

 私が生まれた年、天明の大飢饉であった。死者は何万人いたかわからないほど多かった。関東の諸州の死亡がもっとも多く、栃木の芳賀郡の村々が廃亡したのもこの時であると聞いている。
 今、ここの開墾の任務にあたり、飢饉の害ほど大きいものはないことを知る。60年前後に必ず凶荒のときがあると聞いている。あらかじめその備えをなして、天下に飢えた民がないことを祈願するものである。

 私は幼いとき、しばしば洪水にあい、所持の田畑は再三押し流された。その開墾のため、父母の苦労は筆舌につくしがたいものであった。元通りにしようとしても、容易には良田になしえず、数年の労力でやっと復旧しても、このために負債を生じて所有地を売り払うこととなった。一家滅亡したものも我が家だけではない。
 だから天下の水害をこうむって滅亡にいたるものを救助すること、私が自ら我が家をたてなおしたようにならんことを祈願するものである。

 天下にはさまざまな災厄をこうむって、借財を生じて、利息が累増し、元利を償還することができず、家財産を失い、逃亡する者も少なくない。あるいは家老の職にあってぜいたくになれて、負債のため職務を全うできず、厳しく重税をとりたてて国家危急にいたるものも少なくない。
 私はこれがために方法を設け、救い取ろうと祈願する。

 要をもって言えば、禍を転じて福となし、凶を転じて吉となし、借財を変じて無借となし、荒蕪を変じて開田となし、やせ地を変じて肥沃の地となし、衰貧を変じて富栄となし、困窮を変じて安楽となし、おおよそ人民のにくむところを除いて好むところを与えようと日々夜々に祈願するところなり

 わたしは君命を受けて、物井村にいたってよりここに七年、着々これを実地に施した。
しかしながら、民心はいまだにこれを理解せず、土地が開け、人民は豊かになってきて、しかも人心は喜ばず、かえって反抗をこころみ、よこしまな者どもは威力をたくましくして、良民はその志をのべることができない。
 すでに人民の困窮を変じて安楽の道をあたえ、すでに人民の貧を変じて富み栄させ、すでにやせ地を変じて開田とし、借財を幾度となく無借としてきた。しかしながら、人心の凶を変じて吉とすることがなしがたく、国家の禍を福とすることができない。
 どういう理由か、これは人民が私の誠に疑惑があるためである。
私は君命のために国家を復旧の道をたて、民を水火に救おうと欲するだけである。
天地神明いやしくもこの誠心を真実とせなければ、死ぬとも食をとらず、民を水火から救うことができなければ、この身を猛火になげすてよう。
 これが当山に来て祈誓するゆえんである」

 和尚はその誓願に感嘆し、
「あなたの誓願はまさに世を救う法であり、世間の教えの及ぶところではない。
 よくその誓願をたもって動くことがないならば、いかなる天魔や悪鬼の妨げるものあるもついにはどうすることもできないだろう。」
 そして不動経を与えた。

 先生はこの不動経を受持し、朝夕昼夜怠ることなく、毎時ごとに沐浴し、不動尊の前に礼拝し、誓願を唱えた。
 そして、実に21日目に感応があり、次の歌をよんだ。

 身を捨ててここをせんどとつとむれば 月日の数もしらぬなりけり

 心あれば成田の山にこもりなん 石の上にも岩の上にも


☆「二宮尊徳伝」(佐々井信太郎)より

先生の成田山参籠は、報徳仕法の根元を解明することにおいて極めて重要なことである。先生は正月4日江戸に出る以前、しばしば江戸の小田原藩邸に赴いては仕法が停滞している事情を述べ、時には職を辞したいと申し出た。
文政11年4月に「郡奉行(こおりぶぎょう)預役(あずかりやく)被仰付(仰せつけられ)」という辞令を受けたが、5月16日には文右衛門に辞表を持たせて差し出した。
横田村などで豊田正作の妨害でもめたとき、4月15日の日記には
「右地論につき豊田正作初め取締り役共不念至極に存じ候」とあり、
また塚本天神に立願し一応解決した4月の時に天神様へ奉納した額に、
表には、「心だに 誠の道に かなひなば 祈らずとても 神や守らん」の歌を書き、
裏に、「我が前に千日去らずに祈るとも 心邪なれば罰を与えん」とあるように
非常の決心は日一日と堅いものがあって江戸へと向かったのである。
横田村は幕府直轄と桜町領とに別れ、この合領であるために従来からしばしば草刈場の境界争いがあった。
文政11年4月にも11月にもまたこの地論が起こり、先生は東西に走り回って解決したけれども、その地論の影には先生に反対の1,2の活動があったのである。
しかし村役人の大多数は先生に対して信頼を注いでいた。
だから先生が江戸に出る際にも名主の文蔵、円蔵、寸平らを同伴させた。
このときの江戸の状況は判明しないが、報徳記に見える
「常人撫恤(ぶじゅつ)の深意を察せずして小田原侯に訴ふ」という一章中の問題は、この江戸へ出た一件について関係があろうと思われる。
早くから両三輩の詰役の反対もあったが、特に文政10年の夏から一年間にわたって、極度の障害が生じたのである。
小田原侯に訴えたのは誰かわからないが、あるいはかって陣屋詰であった者と、この時の陣屋詰との結託であったであろう。
しかし文政10年5月8日から、服部十郎兵衛は吉野図書に代って江戸賄方となったから、先生の立場は大いに便宜が開かれていた。
特に大久保忠真侯は先生を信頼していたから、先生に対する処分よりも、かえって先生にその真相を聞こうとして先生を召還したのであろう。
問題の焦点は、撫育の方策に関する事柄であって攻撃する者は言う。
「旧来の住民中に困窮する者が多くある。それらの窮民の仕法を後にして、新しく移民を招き、新来の者に特に仁慈を施して一家を立てさせるのは間違っている」
これに対して先生は主張する。
「民家を増やして荒れ地を開くのは新来の移民と2,3男の分家にまつべきである。
新来の民は住宅もなく、田畑もないから、特別の撫育を要する。
在来の民は怠惰であって容易に勤労の精神を起こさない。
たとえば枯れ木のようであって、いくら肥料を与えても活気を失っているようなものである。
だから旧来の汚悪を洗って改心して勤農の道がたつならば、恩恵を施して永続の道を得るだろう。
新来の民は新しい木のようであって、肥料を与えればすぐに生長するものである。」
小田原から出張してきた役人にこのような論議をつくしても、理解が得られない。
ついに金次郎の仕法というのは在来の民を見捨て新来の民に厚いと訴えたのである。
大久保忠真侯は先生を召してこれを質した。
先生は答えた。
「すでに訴えたものに仕法を行わせてください。私は再三君命を受けて再興の任務にあたり、寝食を忘れて従事していますが、事業の半ばでこの訴えがあったのは、私の不幸であるばかりでなく、君の不幸でもあります。ただちに任務を解いてください。」
大久保忠真侯は先生の誠忠を知っているので、積年の苦労をねぎらうとともに訴えでた者を罰しようと言われた。
先生は訴えた者もまた忠をつくそうと思っただけです。これを罰するならば私もまた任を辞しますと答えた。
大久保忠真侯はこの返答に感動して、訴えでた者をさとして許された。
これで問題は一段落を告げたが、先生は仕法が一進一退を免れない根元は何かを考えた。
障害の原因は外にあるが、そもそも自分の誠心誠意が到らないためではないか。もし誤って退いて事業を停止すれば君命に背き、一村は荒廃し、領主も領民もともに苦しむ。
しかし進んで事業を貫徹しようとすれば障害が生じる。障害が生じるには必ず原因がなければならない。
そうであれば私はこの事業に不適任なのか、それとも方策が足らないのか、
適任でないならば私の身命はもはや必要はな、方策が足りないなら方法を見いださねば
それには俗界から離脱したところで静座黙祷するほかはない、
西か東か、川崎の大師堂か、成田の不動堂かなどと熟慮をめぐらしていた。
同伴の村役人は1月20日までに江戸から帰った。
先生も途中まで同行したが、水戸へ行くと単独行動をとった。
ところが23日になっても陣屋に帰る様子が無い。
横田村の忠右衛門は先生を迎えに水戸にいったが、先生の姿は水戸にはなかった。
村役人たちは25日になっても先生の消息が不明であることを憂慮しはじめた。
そこで一同陣屋に集まって協議をこらした。
27日には江戸へ飛脚を出して、状況を照会したが一向に情報は得られない。
殿様の信頼厚い先生の行方不明が小田原侯の耳に入れば詰役も村役人もどんな境遇に陥るかわからない。
一ヵ月後の2月25日までに江戸に出向いた村民は12名に達したが先生の消息はわからなかった。
そして3月18日横山周平以下が陣屋に到着し、同21日に豊田正作は江戸へ召還させられた。
こうして人的障害は取り去られた。
先生の仕法書の中に「川崎大師へも参詣して祈願した」とあり、
正月20日に村役人と別れてから、川崎そのほか祈願所を巡拝して、いかにして村が治まるか静座工夫の地を探って3月中旬に成田に落ちつかれた。
そして成田から善右衛門が3月23日に陣屋に来たことから、公に成田に参籠していることが公表されたのは、17,8日頃であろう。
正月20日から3月中旬まではその行動が全く不明である。・・・
先生は4月8日に陣屋に戻られた。
4月5日に横山周平、村田與平治、弥兵衛、円蔵、忠次、七郎次、藤蔵、岸右衛門などが土浦まで迎えにいった。
日記によれば3月27日に名主の忠次が成田に遣わされた。小路只助が先生に面会した日は日記には見当たらない。
成田から陣屋に帰ってからは、万事極めて順調である。
小田原藩士として小路只助が常詰となり、宇津家より横山周平、村田などがしばしば往来し、村内でも苦情を唱える者は一人もなくなった。
4月23日には、波子夫人が子ども達2人をともなって下物井村に茶摘に行くという和やかさとなった。


☆「二宮尊徳伝」は昭和10年6月10日印刷とある。今から70年近く前のものである。
「正月20日から3月中旬まではその行動が全く不明である。」とあるが、
「尊徳の裾野」に佐々井信太郎氏の子息佐々井典比古氏が「文政12年2月の尊徳」という稿でその間の一端を明らかにされている。

文政12年(1829)の2月といえば、尊徳の行方不明の時期である。
・・・
ところが、この時期の尊徳の心情と行動の一部を明記した資料が、今回、小田原の報徳神社の宝物中から発見された。
しかも尊徳の自筆である。
文政12年2月吉日付けで、母の実家の当主、川久保太兵衛にあてたもので、
表紙に「五常講」、裏表紙に「川窪太兵衛」と記された通い帳式の簿冊に、5ページにわたって書き込まれている。
ここにあらましを現代訳で紹介する。

(佐々井典比古氏現代文訳「尊徳の裾野」269ページより)

このたび、相州足柄下郡曽我別所村の私の母方の在所へ、祖父母の仏参に来て
みたところ、はなはだ困窮して昔の形を失い、まことに嘆かわしい姿になっている。
そこでつらつら考えたのは
いま私はかたじけなくもご城主(大久保忠真侯)の命によって、下野国芳賀(はが)郡東沼村・横田村・物井村、高4146万石余、宇津ハン之助様知行所の復興にあたっている。
享保年中から追々困窮して、文政4年には収納が米1005俵余、畑方金127両余と、わずか1000石相当にしかならず、ご勤仕もできないありさまとなったので、ご本家でも捨てておかれず、村柄取直し・収納復古・百姓相続の仕法を私に仰せ付けられたのだ。
そこで文政5年から赴任したところ、天なるかな時なるかな、人民に勤労意欲が出、田畑開発はあらましでき、風俗も立ち直り、年貢米が1900俵余、畑方はまだ集計しないが、存外の成就をみた。
このように功ある 
この身は、すなわち父母のたまものであって、全くわが身ではなく、父母の陰徳による。
その父母はどうかといえば、祖父母の陰徳があったからだ。
その本が乱れて末の治まるものがないように、
人生、孝行より大事なものはない が、
では、何をしたら孝行になるのか?
このように退転同様になってしまっては、たとえ追善供養をしたところで、いったんの志で仏意を保てるわけがない。
このように信ずるとき、
ふと天の命がわが心中に浮かんだ。

それはほかでもない。
桜町の仕法のように 
家々で子孫が繁盛しているのは、みんなが親を尊んでいることで、それがまた天道への追善供養なのだ。
この身は天から先祖に分身して、また先祖から代々父母に分身して、父母から我へと分身した。
それゆえ、天理にかなうことをしさえすれば、直ちに孝行なのだ。
しかるに川久保家では、代々のうち 奢りが長じ、分を越えて暮らして他人の財宝をむさぼり、天のにくみを受けて、田畑山林家株を天道に取り戻されたのだ。
不思議と子孫男女が息災だが、いのちがあって田畑山林家株財宝衣食を天から受け得たいと願うならば、身をちぢめ、一切七分で暮らし、堅く分限を守り、天下に陰徳を積んで、国家に財宝を施し、人民のために勤めて後、天のお恵みを受けるしかない。

さて、天下の財宝は天下万民の勤行によって生ずる。
万民の勤行は衣食があってできる。
ところが昨年文政11年は、天明の飢饉のような国土一円の凶作で、農民ははなはだ難渋している。
そこで、仏の菩提のため、元金は私が出すから、里から米を買い入れて山家(やまが)へ運び、山家から麦を買い入れて里へ運び、それも一銭も利を取らずに買い入れ値段で売買して、米麦を流通させ、近村隣家の助けになろうと心がけるがよい、
神儒仏の心は一つ。
ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」


この自筆文書はさまざまの新事実を物語ってくれる。
第一に、文政12年2月に、尊徳が帰郷・仏参をしていたこと、
第二に、桜町仕法7年間の実績を「存外の成就」として評価し、「功あるこの身」として胸を張っている様子が見えること。
第三に、尊徳の思想がすでにこの時点で「父母の根元は天地の令命にあり」から「田畑山林は人民の勤耕にあり」まで、驚くほど「報徳訓」の内容に近くなっていたこと、などである。
 以上Gaiaさまのブログより・・・
 21日間の断食祈祷により「報徳思想」の完成。二宮尊徳二宮尊徳像


21日間の断食祈祷により「報徳思想」の完成。二宮尊徳成田山新勝寺





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Posted by いすころりんこ at 08:24│Comments(3)お気に入り情報・地元編
この記事へのコメント
うわぁつ これぞ まさに 現代の 政官財に 足りない 思想だべさ
Posted by MACDIN at 2009年07月04日 11:19
macdinさまへ

いつも有難う御座います。

近頃の平気で自己の不満を罪も無い人にぶつけ、、殺人までする。 鬼畜の所業の・・日本人・・・。  尊徳の地下にて嘆いていることでしょう。 (-_-;)

(・・・・いのちがあって田畑山林家株財宝衣食を天から受け得たいと願うならば、身をちぢめ、一切七分で暮らし、堅く分限を守り、天下に陰徳を積んで、国家に財宝を施し、人民のために勤めて後、天のお恵みを受けるしかない・・。 尊徳翁より引用 ) 

陰徳を教える義務教育は何処へいったやら・・・ (-_-;)
Posted by いすころりんこいすころりんこ at 2009年07月07日 11:25
はじめまして。
本日新勝寺尊徳翁の碑を写真に収めて来ました。
戦後教育は左翼教育に屈し、尊徳翁が迫害された観があります。
Posted by 24ポイント+21 at 2010年11月12日 14:53
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21日間の断食祈祷により「報徳思想」の完成。二宮尊徳
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